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屋久島の歴史
屋久島にも、縄文時代・弥生時代の遺跡が発見されており、その頃から屋久島にも人が住んでいたことが分かっています。屋久島がはじめて記録として残ったのは西暦607年のことで、中国の隋の歴史書「隋書」に屋久島や種子島、奄美の島のことが書かれていました。この頃は、まだ大和朝廷の支配下にはなかったようです。その後、日本の歴史にも「掖玖」、「夜句」、「邪久」として登場するようになりました。西暦730年頃までに大和朝廷の支配下に入ったのではないかとされています。 その後、屋久島・種子島はあまり収益のあがらない島として取り上げられることもないままでした。島に劇的な変化が訪れるのは、種子島に鉄砲が伝わった戦国時代になります。西暦1543年、種子島が鉄砲が伝わり、翌年種子島の領有をめぐって宮之浦城攻防戦が繰り広げられます。ちなみにこの合戦、日本で初めて鉄砲が使用された戦いだともいわれています。戦国末期、太閤秀吉より、京都方広寺の大仏殿建立のための材料として屋久杉を献上するよう通達が出されます。なぜ秀吉が、九州のはじにある小さな島の屋久杉の存在を知っていたのか。その秘密は、京都本能寺の日増上人にあるといわれています。屋久島の山々が時折鳴動するという不可思議な現象が起こり、それを鎮めるために日増上人が島を訪れ、山に入り法を説いたそうです。その後、多くの僧侶が島を訪れ、屋久杉の存在に触れ、太閤の耳にも届いたというわけです。 西暦1611年(慶長17年)、屋久島と種子島は、島津家の領地となりました。
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屋久島の近代
江戸時代まで、屋久島の森は神聖なものとして女人禁制とされてきました。屋久杉も神木として大事に扱われていました。寺院建立などのために伐採されることはありましたが、厳重に管理されていました。江戸時代、シドッティというイタリアの宣教師が屋久島にひっそりと密入国を果たします。侍の姿に変装していても、言葉が通じず異国の顔をしたシドッティはすぐに見つかり、江戸へ送られてしまいます。シドッティの上陸をうけて、外国船の監視に重点をおいた番所が宮之浦、長田、栗生に設けられ、明治になるまで機能しました。 明治になり「地租改正」「官民有山林境界踏査」などが発令され、屋久島の山林は国有とされてしまいました。そのため、島民は燃料の供給や食糧の補給などの生活資源に困るようになってしまったのです。そして大正10年に「屋久島国有林経営の大綱」を定め、地元住民の生活が考慮されることになりました。それでも、国有林として屋久島の森は開発がすすみ、小杉谷へ続く森林軌道が敷設され、林道の建設がはじまりました。この小杉谷へ続くトロッコ道は、今では縄文杉に向かう観光ルートとして、大勢の人達が歩いています。
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